はじめに
フランス革命の嵐が吹き荒れる中、母マリー・アントワネットと父ルイ16世を処刑で失った王女、マリー・テレーズ。
処刑を免れた王族として、彼女のその後の人生はどのようなものだったのでしょうか。
混乱の時代に翻弄されながらも生き延びた彼女の生涯をたどってみましょう。
※本記事に掲載の画像は、AIによる生成画像です。実在の人物・風景とは関係ありません。

王女として生まれたマリー・テレーズ
マリー・テレーズ・シャルロットは1778年、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの長女として生まれました。
王族の娘としてヴェルサイユ宮殿で育ち、幼少期は華やかな生活を送っていましたが、フランス革命の勃発により状況は一変します。
革命が進行する中で、王室は次々と追い詰められ、ついには一家全員がタンプル塔に幽閉されます。
このときマリー・テレーズはまだ10代でした。
家族を失い、ただ一人の生存者に
1793年、父ルイ16世が処刑され、同年後半には母マリー・アントワネットもギロチンにかけられます。
さらに弟のルイ・シャルル(ルイ17世)は獄中で命を落とし、マリー・テレーズは家族の中でただ一人、生き延びた王族となりました。
彼女はタンプル塔で孤独な日々を過ごしましたが、1795年、オーストリアとの人質交換によって釈放されます。
亡命生活と結婚
釈放後、マリー・テレーズは母の実家であるオーストリア・ハプスブルク家の元に身を寄せ、その後ヨーロッパ各地を転々とする亡命生活を送りました。
1799年には、父方のいとこであるフランス王族のアンジュー公ルイ=アントワーヌと結婚。
夫婦はナポレオンの失脚後、フランスに戻るも、政治の安定しない中で再び国外へ退くことになります。
革命後の王政復古とその後
1814年にナポレオンが失脚し、王政が一時復古された際には、マリー・テレーズも一時的にフランスに戻りました。
王政復古期においては「王女としての威厳ある振る舞い」が人々の記憶に残ったと言われています。
しかし、政治の混乱は続き、彼女は再び亡命生活へ。
夫の死後は主にオーストリアで静かな晩年を送り、1851年にウィーン近郊で亡くなりました。
革命が与えた性格への影響
マリー・テレーズは、革命によって両親と弟を処刑・死別で失い、自身もタンプル塔で長期にわたり幽閉された経験を持ちます。
そのため、後年の彼女は非常に冷静で、自制的な性格になったと伝えられています。
感情を表に出すことが少なく、距離を置いた態度をとることから「冷たい」と評されることもありました。
これは、深いトラウマの影響と、再び誰かを失うことへの恐れ、そして王族としての威厳を守ろうとする強い意志の表れだったとも言えるでしょう。
誰にも頼ることができないという孤独の中で、精神的に自立し、強くならざるを得なかったのかもしれません。
フェルゼンが見たアントワネットの面影
革命以前からマリー・アントワネットと深い関係にあったとされるスウェーデン貴族のハンス・アクセル・フォン・フェルゼンは、成長したマリー・テレーズと再会した際、「まるでアントワネットの生き写しだ」と涙を流したと伝えられています。
彼女の姿や雰囲気、立ち居振る舞いに、かつて愛した王妃の面影を重ねたのでしょう。
このエピソードは、母アントワネットの美しさと気品を、娘がしっかりと受け継いでいたことを物語っています。
マリー・テレーズは単なる生存者ではなく、フランス王室の記憶を体現する存在でもあったのです。
まとめ
マリー・テレーズの生涯は、王族としての誕生、革命による崩壊、家族の死、そして亡命と波乱に満ちたものでした。
激動の時代を生き抜いた彼女の姿は、華やかな王室文化と、歴史の大きな転換点を象徴する存在ともいえます。
母マリー・アントワネットの悲劇的な最期とは対照的に、マリー・テレーズは苦難の中でも力強く生き抜いたフランス王女でした。