はじめに
戦国時代の合戦では、数百から数千におよぶ戦死者が出ることも珍しくありませんでした。
現代の感覚では「大量の遺体を放置すれば疫病の温床になってしまうのでは」と思うでしょう。
実際、戦後処理は大きな課題であり、勝者側や地域の人々が頭を悩ませていました。
ここでは、合戦後の遺体がどのように扱われていたのかを解説します。

首級の確認のため遺体はしばらく放置された
戦国時代の合戦では、敵将の首を挙げることが戦功の証とされていました。
そのため戦後しばらくは遺体がその場に残され、味方や敵方の兵が首を探して回ることがありました。
戦場が数日間そのまま放置されることもあり、戦死者はすぐに片づけられるわけではありませんでした。
遺体処理を担ったのは誰か
- 勝者の兵士や下級武士
- 首実検が終わった後、勝利した側の兵士たちが遺体を集めて処理することが多かったとされます。
- 地元の百姓や寺社
- 合戦地の周辺に住む農民や、寺社に属する人々が埋葬を手伝うこともありました。
特に寺は墓地や僧侶の存在があったため、戦没者の供養も担う役割がありました。
- 合戦地の周辺に住む農民や、寺社に属する人々が埋葬を手伝うこともありました。
- 捕虜や雑兵
- 敗軍側で生き残った兵士や捕虜に、遺体を埋めさせるケースもあったと伝わりがあります。
土葬が一般的だった戦国時代
当時の日本では火葬よりも土葬が一般的でした。
そのため、合戦で倒れた兵はまとめて穴を掘り、集団で土葬されることが多かったと考えられます。
各地には「首塚」「胴塚」「塚山」と呼ばれる戦死者の埋葬地が残されており、これがその証拠となっています。
疫病と戦場の後始末
遺体を長く放置すると、悪臭や病の原因になると当時も理解されていました。
そのため勝敗が決した後はできるだけ早く埋葬が行われました。
ただし完全に処理できるわけではなく、戦場跡には長く白骨が残り、後世に供養塔が建てられる例も多くあります。
まとめ
戦国時代の合戦後、遺体はすぐには処理されず、まずは首級の確認が行われました。
その後、勝者の兵士や地元の人々によってまとめて土葬されるのが一般的でした。
放置された遺体は疫病の温床となる恐れがあり、寺社や地域社会も含めた「戦後処理」が重要な役割を果たしていたのです。
戦場に残る数多くの塚や供養塔は、その時代の現実を静かに物語っています。