はじめに
1853年、黒船を率いて浦賀に来航したペリー提督。
その強烈なインパクトは日本史の教科書でもおなじみですが、「実際の交渉は何語で行われたのか?」と聞かれると、意外と知られていません。
英語で直接話したのか、それとも通訳を介したのか――当時の日本とアメリカの言語事情を知ると、交渉の裏側が見えてきます。
ここでは、ペリー来航時の交渉で使われた言語について整理していきます。

ペリー来航の目的
1853年、マシュー・ペリー提督1794年4月10日-1858年3月4日率いるアメリカ海軍の艦隊が日本の浦賀に来航しました。
この来航の目的は、ただちに日本との通商を始めることではなく、主に以下の点を幕府に求めるものでした。
- 遭難したアメリカ人漂流民の保護
- 捕鯨船や商船のための補給港の確保
- アメリカ船に対する友好的な対応の保証
当時の日本は江戸幕府による鎖国体制のもと、オランダや中国との限定的な交流しか行っていませんでした。
一方、19世紀半ばのアメリカは太平洋進出を進め、捕鯨業や貿易の拡大に伴い、日本近海を航行する船舶が増えていました。
そのため、ペリーは大統領ミラード・フィルモア1800年1月7日-1874年3月8日の親書を携えて来航し、日本との友好関係の樹立と限定的な開港を求めました。
翌1854年の再来航時には、日米和親条約が締結され、下田と函館の開港や漂流民の保護が定められました。
これは日本の鎖国体制が揺らぎ始めた象徴的な出来事であり、本格的な通商の開始はその後の条約によって進められていきます。
何語で会話したの?
ペリーが1853年に来航した当時、日本で英語を理解し会話できる人物はほとんどいませんでした。
江戸時代の日本では、西洋語の研究は主にオランダ語に限られており、これは鎖国下でオランダが唯一の西洋貿易国だったためです。
そのため、交渉の場では日本側のオランダ通詞が対応しましたが、実際の意思疎通は英語だけで行われたわけではありません。
ペリー側が用意したオランダ語訳や漢文(中国文)の文書を介し、複数の言語を使った間接的なコミュニケーションが行われていました。
また、ペリー一行には中国語(漢文)に通じた人物もおり、筆談による交渉も重要な役割を果たしていました。
英語が本格的に通訳・外交の中心言語になるのは、開国後、英語圏諸国との交流が増えた明治時代以降のことです。
ジョン万次郎は通訳をやらなかったの?
ペリー来航の話題になると、「英語ができたジョン万次郎が通訳をやればよかったのでは?」と思う人も多いでしょう。
しかし実際には、ジョン万次郎はペリー来航時、公式な通訳として前面に立つことはありませんでした。
それは「日本にいなかったから」ではありません。理由はもっと政治的で、当時の幕府の事情と深く関係しています。
なぜ通訳として使われなかったのか
最大の理由は、幕府からの警戒心です。
当時の幕府にとって万次郎は、
- 長期間アメリカで生活していた元漂流民
- キリスト教文化や西洋的な価値観を知る人物
- 英語を話し、西洋事情に詳しすぎる存在
でした。
幕府は「有能だが危険な人物」と見ており、外交交渉の最前線に立たせることを避けたのです。
ジョン万次郎(本名:中浜 万次郎、1827年1月27日-1898年11月12日)は、江戸時代末期にアメリカで英語と西洋知識を学び、日本の近代化に貢献した人物です。
1827年、現在の高知県に生まれ、14歳のときに漁船で遭難して太平洋を漂流。アメリカに救助され、そのまま現地で教育を受け、英語や航海術、数学などを身につけました。
1851年に日本へ帰国後は、当時ほとんど存在しなかった「英語と西洋事情を知る日本人」として、幕府や明治政府に助言を行い、通訳や教育の分野でも活躍しました。
ペリー来航時には表立った通訳にはなりませんでしたが、日本で最初期の実用的な英語話者として、日本が開国・近代化へ進むうえで重要な役割を果たした人物です。

まとめ
1853年にマシュー・ペリーが浦賀に来航した目的は、日本との友好関係を築き、アメリカ船の補給港確保や漂流民保護を求めることでした。
当初から本格的な通商関係の開始を目的としていたわけではありません。
交渉の場では英語だけで会話が行われたわけではなく、オランダ語通詞や漢文(筆談)を介した、多言語による間接的な意思疎通が行われました。これは、鎖国下の日本がオランダを通じてのみ西洋と接してきた歴史によるものです。
また、ジョン万次郎はペリー来航以前の1851年にすでに日本へ帰国していました。
しかし、長期間アメリカで生活していた経歴から幕府に警戒され、公式な通訳として前面に立つことはなく、主に裏方として西洋事情の助言などに関わっていました。