歴史 雑学

浦賀に来航したペリーは何語で交渉したの?

2023年6月27日

「黒船」といいえばペリーだよね

ペリーは浦賀に来て開国を願い出たんだよね?

そもそも、何語で交渉したんだろう?

ペリー来航の目的

1853年、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ海軍の艦隊が日本の浦賀に来航した目的は、日本の開国と日米間の通商関係の開始を求めることでした。

当時日本は江戸幕府による鎖国政策を実施しており、オランダと中国以外のほとんどの国との国際交流を制限していました。
しかし19世紀半ばになると、西洋列強国は植民地拡大と通商路確保のためにアジアへの進出を積極化し、日本の開国を求める圧力が高まっていました。

アメリカもまた太平洋を横断する商船や捕鯨船の安全な寄港地を確保するため、日本の開国を望んでいました。
そのため、ペリーは大統領ミラード・フィルモアの命令を受けて日本へ派遣され、日本の開国と日米間の通商関係開始を目指しました。

ペリーは浦賀に到着後、江戸幕府に対してアメリカ大統領からの親書を提出し、開国と通商条約締結を求めました。
翌年1854年の再来航時に日米和親条約が締結され、日本の鎖国政策は終わりを告げ、西洋諸国との外交と貿易が開始されました。

何語で会話したの?

ペリーが1853年に日本を訪れたとき、日本にはほとんど英語を理解・話すことができる人はいませんでした。
西洋との接触が非常に限定的だった江戸時代の日本では、西洋語の研究はほぼオランダ語に限られていました。これはオランダが、鎖国政策下の日本と貿易を行っていた唯一の西洋国であったからです。

したがってペリーが初めて来航した時、通訳は主に「オランダ通詞」(オランダ語の通訳)と呼ばれる者たちが担当しました。彼らはオランダ語を介して英語の文書を解読しようとしたと考えられます。
しかしオランダ語と英語は異なる言語であり、その翻訳は完全ではなかったでしょう。

また、ペリーの一行には中国語に精通した通訳も含まれていたと言われています。
このため、英語、オランダ語、中国語を介して間接的に意思疎通が図られたと考えられます。

英語の通訳が活躍するようになったのはペリー来航後、日本が開国を余儀なくされ、英語圏の国々との交流が増えるようになった明治時代以降のことです。

ジョン万次郎は通訳をやらなかったの?

またジョン万次郎が通訳者にならなかったのか?と思われる方もいるでしょうが、ジョン万次郎(またの名を中村 万次郎)がペリー来航時に通訳として活用されなかった理由は、彼がまだ日本にいなかったからです。

具体的な経緯を見てみると、ジョン万次郎は1841年に生まれ1848年に漁船で遭難し、その後アメリカに漂着したとされています。
アメリカでは教育を受け、英語を学びました。彼が日本に帰国したのは、1853年のペリー来航よりも後の1858年のことでした。

ジョン万次郎(本名:中村 万次郎、1841年 - 1898年)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本の航海士、教育者であり、日本の近代化に貢献した人物の一人です。
彼は1841年に現在の高知県で生まれ、16歳の時に漁船で遭難した後、漂流してアメリカにたどり着きました。
その後アメリカ人の家庭に引き取られ、ジョン・マンジロー(John Manjiro)と名付けられました。
ここで彼は英語を学び、航海術や数学、製図なども習得しました。
1858年に日本に帰国した彼は、幕府や明治政府に対してアメリカとの交渉や対外政策についてのアドバイスを行いました。
また、彼の英語力は当時の日本では貴重で、英語教師や通訳としても活躍しました。

まとめ

ペリーが浦賀に来航した目的として、日本の開国と日米間の通商関係の開始を求めるためでした。

その際、何語で会話をしたかというと主にオランダ語と言われています。
オランダが、鎖国政策下の日本と貿易を行っていた唯一の西洋国であったからです。

また、日本の開国後に西洋の技術や文化を日本に導入するための活動を積極的に行い、特に教育と農業に関して大きな影響を与え、英語教育や農業技術の改革に貢献したジョン万次郎は、ペリー来航時にはまだ日本に帰国していなかったために通訳として働くことは不可能でした。

-歴史, 雑学
-,